Column

死の「もやもや」を話せる場所

最初の会に集まった二人の話

死について胸の奥にもやもやを抱えたまま、話せずにいる人は少なくありません。僧侶顧問・鈴木秀彰が開いた会の最初の回に集まった二人から、安心して話せる場所の意味を考えます。

この記事の要点

死のもやもやを話せる場所は、意外なほど身近にありません。僧侶顧問・鈴木秀彰があえてお寺ではなく図書館やカフェで開いた「死を感じ考える会」の最初の回に集まったのは、たった二人——身近な友人を亡くした女子大学生と、看板を見て通りがかった年配の男性でした。必要だったのは解決や助言ではなく、思いをそのまま口に出しても大丈夫だと感じられる場所。もやもやは、安心して話せたときに少しずつほどけていきます。

大切な人を亡くしたとき、あるいはふと自分の死を思ったとき、胸のなかにもやもやとした思いが残ることがあります。けれど、それを誰かに話せる場所は、意外なほど身近にありません。僧侶顧問の代表・鈴木秀彰は、「僧侶と一緒に死を感じ考える会」を開きました。その記念すべき最初の回に集まったのは、たった二人。本コラムは、鈴木自身の体験にもとづくコラムとして、その二人の対話から「もやもやを話せる場所」の意味を考えます。(2026年7月時点)

なぜ死を語る会を、お寺ではなく図書館やカフェで開いたのか?

お寺ではなく、図書館の一室で

うつむいて物思いにふける人の共感的で落ち着いた場面

もやもやを抱えた人にとって、「立派な場所」はときにハードルになるからです。僧侶顧問・鈴木秀彰がこの会で選んだのは、あえてお寺ではなく、身近な場所でした。

「あえてお寺ではやらずに、皆さんの身近な場所である図書館であったりとか、カフェで(開いた)」(鈴木秀彰)

最初は図書館の「編集ルーム」を借り、看板を立てて予約制で開きました。特別なプログラムはありません。あるのは、「ただひたすら死をテーマにして、おのおのが思っていることを語る会」という、ごくシンプルな設計だけ。教わりに行くのでも、答えをもらいに行くのでもなく、ただ自分の思いを口にしていい。その気軽さこそが、この会の入口でした。日常の延長にある場所だからこそ、足を運びやすかったのです。

最初の会には、どんな人が集まったのか?

並んで歩きながら静かに語り合う二人の後ろ姿

記念すべき初回の参加者は、年齢も来た経緯もまったく異なる二人でした。

女子大学生身近な友人を自死で亡くし、死についてもやもやを抱えていた。
年配の男性立てた看板に気づいて、通りがかりに参加した。

※それぞれの属性は、本人の語りの表現にもとづきます。

年齢も、来た経緯も、抱えているものもまったく違う二人。けれど、この対照的な顔ぶれこそが、「死を話せる場所」がどれだけ必要とされているかを静かに物語っています。片方は、心のなかで長く言葉にできずにいた思いを抱えてやって来た。もう片方は、たまたま看板を目にして、それでも足を止めた。どちらも、「死について話す場がここにある」と分かった瞬間に、引き寄せられるように集まってきたのです。

「もやもや」は、話せずにいるだけで重くなる

友人を亡くした学生が抱えていた「もやもや」は、答えの出ない問いのようなものです。なぜ、という問いにも、どうすればよかったのか、という問いにも、明確な答えはありません。けれど、答えが出ないからといって、その思いが消えるわけではない。むしろ、話せずに胸のなかにとどめておくほど、もやもやは重くなっていきます。必要だったのは、解決や助言ではなく、その思いをそのまま口に出しても大丈夫だと感じられる場所でした。

なぜ通りすがりの人が、死を語る会に足を止めたのか?

「たまたま」が生まれる余白

死は遠ざけられがちなテーマである一方で、実は多くの人が心のどこかで気にかけているからです。人は、あらかじめ「死について語ろう」と身構えていなくても、目の前にその入口があれば、ふと立ち止まることがある。だからこそ、身近な場所に、開かれた看板がひとつあるだけで、「たまたま」の出会いが生まれるのです。年配の男性が看板を見て通りがかりに入ってきたという事実は、そのことを物語っています。会場を特別な場所にしなかったことが、この偶然を招き入れました。

違う立場の人が、同じテーマを語る

学生と年配の男性という、世代も背景も異なる二人が、同じ「死」というテーマを囲んで語る。そこには、日常ではめったに生まれない対話がありました。立場が違うからこそ、相手の言葉が自分の思いを照らし返す。もやもやを話せる場所とは、答えを教えてくれる場所ではなく、違う誰かの声を通して、自分の内側にある思いに気づき直せる場所でもあるのです。

なぜ死のもやもやを「話せる場所」は、これほど少ないのか?

身近な人ほど、かえって話しにくい

話せる場所が少ないのは、身近な人ほど、かえって話しにくいからです。死にまつわるもやもやを、家族や親しい友人に打ち明けるのは、案外むずかしいものです。相手を心配させてしまうのではないか、重い話で気をつかわせてしまうのではないか――そうした遠慮が、言葉を飲み込ませます。近しい間柄であるほど、かえって話しにくいことがある。だからこそ、利害も気づかいもない場所で、初めて口にできる思いがあります。僧侶顧問・鈴木秀彰の会が担っていたのは、まさにこの「気をつかわなくていい」という余白でした。よく知らない相手だからこそ、飾らずに本音を置いていける。匿名に近い距離感が、もやもやを外に出す助けになるのです。

答えを求められない、という安心

もうひとつ、この会の大切な性質は、参加者に「正しい答え」を求めないことでした。死について語るとき、人はしばしば、気の利いたことを言わなければ、前向きに締めくくらなければ、と身構えてしまいます。けれど、この会にあったのは「ただ、思っていることを語る」というだけの、評価のない時間でした。うまく言えなくてもいい。結論が出なくてもいい。そう分かったとき、人はようやく、取り繕わない本音に手を伸ばせるようになります。もやもやは、整理して差し出す必要のあるものではなく、整理できないまま口に出してよいもの――その許しこそが、話せる場所のいちばんの働きなのかもしれません。

死のもやもやを話したあとに、何が残るのか?

解決しなくても、軽くなる

残るのは、答えではなく「一人で抱えていない」という感覚です。「もやもや」を話したからといって、その場で答えが見つかるわけではありません。友人を失った悲しみが消えるわけでも、死への問いに決着がつくわけでもない。それでも、口に出して誰かに受け止めてもらえた思いは、抱えていたときよりも確かに軽くなります。人は、問題が解決したから楽になるとはかぎりません。むしろ「一人で抱えていない」と感じられたことのほうが、心を支えることがある。話せる場所の価値は、答えを出すことではなく、重さを分け合うことにあるのです。

語ることは、生きることに向き直ること

死について語る時間は、不思議と「では、自分はどう生きたいのか」という問いへと静かに転じていきます。死を見つめることは、暗い場所にとどまることではなく、限りある時間をどう過ごすかを考え直すきっかけになる。もやもやを言葉にした人が、帰り道で少しだけ前を向けるのは、そのためかもしれません。死を語る場所は、生きることを語り直す場所でもあるのです。

まとめ――話せる場所が、もやもやをほどく

最初の会に集まったのは、たった二人。けれど、その二人の姿が、「死のもやもやを話せる場所」への確かな需要を映し出していました。大切だったのは、身近な場所に、否定も評価もされない対話の場をひとつ用意したこと。それだけで、長く言葉にできずにいた思いも、通りすがりのふとした関心も、自然と語りへと変わっていきました。もやもやは、消し去るものではなく、安心して話せたときに、少しずつほどけていくものなのかもしれません。

この「安心して本音が立ち上がる場をつくる」という関わり方は、そのまま組織のなかにも活かせます。僧侶顧問は、企業の内側に入り、社員一人ひとりが立場や評価を気にせず、胸のうちのもやもやに触れられる対話の場をつくります。言葉になる前の声を、静かに招き入れる。組織のなかに“語られないまま”になっている思いがあるなら、その場づくりから、ご一緒させてください。

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※本コラムには自死への言及が含まれます。もしいま、あなた自身がつらい気持ちを抱えているなら、一人で抱え込まず、身近な相談窓口や支援機関(例:よりそいホットライン 0120-279-338)に頼ることも考えてみてください。