死について語りたいのは、高齢者だけではありません。僧侶顧問・鈴木秀彰が立ち上げた「僧侶と一緒に死を感じ考える会」に最初の回で参加したのは一人の女性大学生、過去には小学生の子も参加しました。「不吉だから考えるな」と問いを封じられてきた若い人ほど、語る場を求めていたのです。死を見つめることは、裏側から生を見つめること。その入り口は、年齢を問わず誰にでも開かれています。
これは、僧侶顧問の代表・鈴木秀彰自身の経験にもとづくコラムです。鈴木は「僧侶と一緒に死を感じ考える会」という、死について語り合う場を立ち上げました。参加してくれるのは、きっと「死に近い人生の先輩方」だろう——そう想定していたといいます。ところが実際にふたを開けてみると、最初の回に参加してくれたのは一人の女性大学生でした。過去には、小学生の子が参加してくれたこともあったそうです。死について考えたいのは、決して高齢の方だけではない。この記事では、その気づきがどこから生まれたのかを、本人の言葉に沿って振り返ります。(2026年7月時点)
「死を感じ考える会」は、どうやって始まったのか?
直感で、地元新聞の記者を呼んだ
「死を感じ考える会」を始めるにあたって、僧侶顧問・鈴木秀彰はある直感的な仕掛けを打ちました。会の一番最初の回から、当時付き合いのあった地元新聞の記者を呼び、記事にしてもらったのです。「この記事を読んで、話したいと思っている人がつながってくれるんじゃないか」。そんな読みがありました。
その読みは当たります。記事は新聞の電子版に掲載され、そこから反響が生まれ、実際に会へ参加してくれる人へとつながっていきました。鈴木はこの経験を、こう振り返ります。
「メディアの力ってやはり強いな」(鈴木秀彰)
そもそも、死について語る場がなかった
反響が大きかった背景には、シンプルな事実があります。世の中に、死について語る場がほとんどなかったのです。ふだんの生活の中で「死について話したい」と口にすれば、多くの場合は敬遠されてしまう。だからこそ、いざそういう場が用意されると、「実は語りたかった」という人たちが静かに集まってきました。鈴木自身、その数の多さに驚いたといいます。死について語りたい人は、想像以上に世の中にいる——会を続けるほど、その手応えは強くなっていきました。
「死を感じ考える会」に集まったのは、どんな人たちだったのか?
集まったのは、想定していた「人生の先輩方」だけではありませんでした。最初の回に参加してくれたのは、一人の女性大学生だったのです。会の開催場所は、最初は図書館でした。その後はカフェなど、参加しやすい場所へと広げていきます。そして年齢層についても、僧侶顧問・鈴木秀彰にははっきりとした予想がありました。参加してくれるのは、おそらく死に近い「人生の先輩方」だろう、と。年齢を重ね、身近な人を見送る経験を重ねた人ほど、死について考えたいはずだ——そう考えるのは自然なことです。
ところが、その予想は良い意味で裏切られました。若い人たち、学生さんたちも、死について強い関心を持っている。これは鈴木にとって、大きな気づきになりました。
| 想定していた参加者 | 死に近い「人生の先輩方」。年齢を重ね、身近な人を見送る経験をした人ほど死について考えたいはずだ、と考えていた。 |
|---|---|
| 実際に集まった人 | 最初の回に参加したのは、一人の女性大学生。過去には小学生の子が参加したこともあった。 |
「最初の回にも女性大学生が参加してくれているぐらい、若い人たち、学生さんたちも関心があるんだな」(鈴木秀彰)
さらに過去には、小学生の子が参加してくれたこともあったといいます。死について考えたいという気持ちは、年齢とはあまり関係がない。むしろ、大人が思っているよりもずっと早い時期から、人は死について問いを抱いているのかもしれません。
「不吉だから考えるな」と言われてきた人たち
会に参加した若い人の中には、こんなふうに語ってくれた人がいました。昔から死について興味や関心があったけれど、大人に話しても「そんなことは考えなくていい」「不吉だから」と、考えること自体を止められてしまう。だからずっと、考えたいのに言葉にできずにいた——。そういう人が、この会で初めて自分の思いを言葉にできた、と話してくれたのです。
「ようやくこの場で、僕の考えていることを話にできた、言葉にできた」(参加者の言葉)
鈴木にとって、この一言はとても印象に残るものでした。死について考えることを封じられてきた人が、安心して言葉にできる場を得たとき、そこにあるのは暗さではなく、むしろ解放に近い表情です。「語る場」そのものに、確かな需要がある。会を重ねるほど、その実感は深まっていきました。
若い人が死について考えるのは、後ろ向きなことなのか?
死を見つめることは、生を見つめること
死について考えることは、必ずしも後ろ向きな行為ではないと僧侶顧問・鈴木秀彰は考えています。むしろ、いつか終わりが来ると知っているからこそ、「では、それまでをどう生きたいか」という問いが立ち上がってきます。死を見つめることは、裏側から生を見つめることでもあるのです。「若いのに死のことばかり考えて、大丈夫だろうか」。周囲がそう心配する気持ちも、分からなくはありません。
特に、これから進路や生き方を選んでいく若い世代にとって、「限りある時間をどう使うか」という視点は、決して縁遠いものではありません。学生や小学生が死について語りたがるのは、彼らが暗い気持ちに沈んでいるからではなく、生きることに真剣だからだ——そう受け止めることもできます。
問いを止めないことの意味
もし身近に、死について考えたいと言う若い人がいたら、「そんなことは考えなくていい」と反射的に止めてしまう前に、少しだけ耳を傾けてみてほしいと思います。考えを封じられた経験は、「本当に大事なことは口にしてはいけない」という感覚として、その後も長く残ることがあります。逆に、安心して問いを口にできた経験は、自分の内側にあるものを言葉にする力を育てます。死を語る場が持つ価値は、この「言葉にできる」という点にこそあるのかもしれません。
大人こそ、聞き手になれる
この会での気づきは、若い人の姿だけにあるのではありません。むしろ、周りの大人がどう振る舞うかが、問いを育てるか、閉じさせるかを大きく左右します。子どもや学生が「死ってなんだろう」と口にしたとき、慌てて話をそらすのではなく、「どうしてそう思ったの?」と一緒に立ち止まってみる。答えを教える必要はありません。問いを受け止め、言葉になるのを待つ。それだけで、相手は「この気持ちは口にしていいんだ」と感じられます。鈴木が会で果たしてきた役割も、突き詰めればこの「聞き手」であり続けることでした。誰かが安心して語れる場は、特別な設備ではなく、まず一人の聞き手から始まります。
まとめ——死について考えたい気持ちに、年齢は関係ない
「僧侶と一緒に死を感じ考える会」に集まってきたのは、想定していた人生の先輩方だけではありませんでした。最初の回には女性大学生が、過去には小学生の子も参加し、若い世代もまた、死について語る場を静かに求めていたのです。「不吉だから」と言葉を封じられてきた人が、ようやく思いを言葉にできる。その姿は、死を語る場そのものに需要があることを、はっきりと示していました。死について考えることは、生きることを考えること。その入り口は、年齢を問わず、誰にでも開かれています。
僧侶顧問は、経営者や組織に関わる方が抱える「本当は、どう生きたいのか・どう働きたいのか」という問いに、隣で伴走します。答えを急がせず、問いを立て、言葉になるのを待つ。代表・鈴木秀彰が「死を感じ考える会」で大切にしてきた姿勢を、そのまま企業の現場に持ち込みます。
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