Column

死を考えることは、働くことを考えること

死生観が「なぜ働くのか」に答える理由

「どう死にたいか」を突きつめると、「どう生きるか・どう働くか」という問いに行き着きます。死生観を語る場を重ねてきた僧侶顧問・鈴木秀彰の体験から、その理由をたどります。

この記事の要点

「なぜ働くのか」という問いには、「どう死にたいか」から近づけると僧侶顧問・鈴木秀彰は語ります。「どう死にたいか」を考えはじめると、人は必ず「では、それまでどう生きるのか」を問い直すからです。死生観を語る場を重ねるなかで、話はいつも「どう生きる、どう働く」に行き着きました。学生の「なぜ勉強するのか」も社会人の「なぜ働くのか」も、「限りある人生を、どう使うのか」という一点から立ち上がっています。

「なぜ働くのか」。忙しい日々のなかで、この問いに立ち止まって答えられる人は多くありません。僧侶顧問の代表・鈴木秀彰は、まったく別の入り口――「死」を考えることから、この問いに近づけると語ります。本コラムは、鈴木がホスピスでの経験を経て続けてきた「死を感じ考える会」での気づきをもとに、死生観と働くことのつながりをたどります。(2026年7月時点)

なぜ死を考える機会は、暮らしから消えていったのか?

「家で生まれ、家で亡くなる」時代との違い

静かな水面に映る空と一筋の光、余白の多い穏やかな情景

死を考える機会が消えていったのは、人生の始まりと終わりが家から病院へと移り、死を見る機会そのものが失われたからだと僧侶顧問・鈴木秀彰は指摘します。誰もが、生まれた瞬間から一〇〇パーセント、死に向かって歩いています。それは動かしようのない事実です。にもかかわらず、私たちが「生きるとは何か・死ぬとは何か」を考えるきっかけは、いまとても少なくなっている――そう鈴木は見ています。

家で生まれて家で亡くなるのが当たり前だった。だから、死を身近に感じ、自然に考える機会があった。
現代病院で生まれ、病院で亡くなるのが一般的になった。人生の始まりと終わりが暮らしの場から切り離され、死を見る機会も、考えるきっかけも失われた。

死は「どこか遠く、自分とは関係のないもの」として扱われるようになったのです。

この変化は、単に「死を考えなくなった」だけにとどまりません。死を考えないということは、その裏返しである「生きること」「働くこと」の意味からも、静かに目を背けているということでもあります。

なぜ死を考える場に、人が自然と集まるのか?

ノートに何かを書き留めながら静かに内省する人の横顔

死を考える場に人が集まるのは、死をタブー視して考えるきっかけが失われている今だからこそだと僧侶顧問・鈴木秀彰は捉えています。鈴木は、死生観について語る場を継続的に開いてきました。すると不思議なことに、回を重ねるたびに、参加者の話は自然と同じテーマへ行き着いたと言います。それは、「死を考えることは、生きることを考えることにつながる」というものでした。

「どう死にたいか」を考えはじめると、人は必ず「では、それまでどう生きるのか」を問い直します。残された時間をどう使いたいのか。何を大切にして日々を過ごしたいのか。死という終着点を意識した瞬間、生き方そのものが輪郭を持ちはじめる。だからこそ、ふだんは口にできない問いを持ち寄れる場に、人は自然と足を運ぶのです。

「死を考えることは生きることを考えることにつながる。どう死ぬにあたっては、どう生きる、どう働くという、とても大事な問いにつながっていく」(鈴木秀彰)

ここで鈴木が「働く」という言葉を添えているのが、経営や組織を考えるうえでの大切な手がかりになります。

なぜ「なぜ働くのか」は、生き方そのものの問いになるのか?

学生の「なぜ勉強するのか」と地続きにある

「なぜ働くのか」が生き方そのものの問いになるのは、それが「限りある人生をどう使うか」という問いと同じものだからです。死生観をめぐるこの問いは、決して特別な人だけのものではありません。僧侶顧問・鈴木秀彰は、それが年齢や立場を問わない普遍的な問いだと考えています。

学生にとって「なぜ勉強するのか」
社会人にとって「なぜ働くのか、なぜお金を稼ぐのか」

一見ばらばらに見えるこれらの問いは、どれも「限りある人生を、どう使うのか」という一点から立ち上がっている、という見立てです。

「どう死ぬか」を軸に据えると、日々の行動の意味づけが変わります。ただ与えられた業務をこなす時間だったものが、「自分は何のためにこの仕事をしているのか」という問いと結びつく。目標や評価に追われて見失いがちな“行動の軸”が、死生観という遠い一点から照らし返されるのです。

組織にとっての意味

この視点は、組織づくりにも静かに効いてきます。従業員一人ひとりが「なぜ働くのか」を自分の言葉で持てているかどうかは、制度や報酬だけでは動かせない領域です。給与や評価制度をどれだけ整えても、「何のために働くのか」という根本が空白のままでは、人は少しずつすり減っていきます。

僧侶顧問が組織のなかで大切にしているのは、この“空白”に光を当てることです。死生観を直接語り合うわけではなくとも、「自分は本当は何を大切にしたいのか」という内省の時間を持つことで、人は自分の働く意味とつながり直します。それは、遠回りに見えて、実は組織の土台をつくる作業でもあるのです。

語り合う人が増えると、問いはどう深まるのか?

メディアをきっかけに、多様な人が集まった

僧侶顧問・鈴木秀彰の会は、あるときメディアに取り上げられたことをきっかけに、さまざまな背景を持つ人が参加するようになりました(媒体の詳細はここでは割愛します)。年齢も、職業も、抱えている事情も異なる人たちが、同じ「死」というテーマの前に静かに座る。すると、語られる言葉はいっそう豊かになっていきました。

立場が違えば、死の感じ方も違います。人生の先輩として死を意識する人もいれば、大切な誰かを見送った人、まだ死を遠くに感じている若い人もいる。それでも不思議なことに、話が行き着く先はいつも同じでした。「では、それまでをどう生きるのか」。死という共通の一点を見つめると、そこから先の「生き方・働き方」がくっきりと立ち上がってくるのです。

「なぜ働くのか」に、唯一の正解はいらない

ここで大切なのは、死生観に「正しい答え」を求めないことだと鈴木は言います。「どう死にたいか」も「なぜ働くのか」も、誰かが用意した模範解答があるわけではありません。むしろ、その問いを自分のなかに持ち続けること自体に意味がある。答えを急いで埋めるのではなく、問いを抱えたまま日々を過ごすこと。それが、行動の一つひとつに静かな軸を通していきます。

働く現場に置きかえれば、これは「なぜこの仕事をしているのか」を、上から与えられた正解としてではなく、自分の言葉で持ち続けることに近いと言えます。組織のなかにその問いを持てる人が増えるほど、日々の業務は“こなす時間”から“意味のある時間”へと、少しずつ質を変えていきます。

まとめ――遠い問いが、足元を照らす

死は、多くの人にとって「考えたくないもの」かもしれません。けれど、死を考えることは生きることを考えること、そして「どう働くか」を考えることに、まっすぐつながっています。暮らしから死を考える機会が消えていった今だからこそ、あえて立ち止まってこの問いに触れる時間には、静かな価値があります。

僧侶顧問は、経営者や組織のなかに入り、一人ひとりが「何のために」という根本の問いに向き合える場をつくります。制度では届かない“働く意味”の領域に、仏教の智慧で静かに関わる。もし、あなたの組織にも言葉になる前のもやもやがあるなら、まずは静かに話すことから始めてみませんか。

初回相談(30分無料)を申し込む