「死にゆく人に僧侶は必要とされる」という自負が現場で崩れたあと、僧侶顧問・鈴木秀彰はお釈迦さまの姿を捉え直し、「僧侶は本来、生きている人にこそ関わる役割ではないか」という気づきにたどり着きました。肩書きを脇に置き、鈴木個人として、会話にならない相手にもただそばにいて、話をする。その関わりが「あなただから」という固有の関係性となり、相手に「生きていていい」という安心をもたらしました。
これは、僧侶顧問の代表・鈴木秀彰自身の経験にもとづくコラムです。「僧侶と理学療法士に、交わる点はない」。そう思いながらも、鈴木は理学療法士としてホスピスに勤務していました。「死にゆく人に、僧侶という役割は必要とされる」という自負を持って。ところが現場では、その役割はほとんど求められませんでした。必要とされない現実に直面した鈴木は、しかしそこから、「僧侶は本来、生きている人にこそ関わる役割ではないか」という大きな気づきへとたどり着きます。この記事では、その転換と、「ただそばにいること」の価値について振り返ります。(2026年7月時点)
なぜ「死にゆく人に僧侶は必要とされる」という自負は崩れたのか?
「まだ早い」と関われない僧侶
僧侶顧問・鈴木秀彰は「死にゆく人に僧侶は必要とされる」と信じて現場に入りましたが、実際に僧侶の話を聞きたいという需要は、ごくわずかでした。本文では「100人に1人ぐらい」、別の場面では「300人に1人」とも語られており、数値には揺れがあります(いずれも本人の当時の実感にもとづく表現で、正確な数字ではありません)。いずれにせよ、想定とはかけ離れた少なさだったことは確かです。
さらに、僧侶という立場そのものが、関わりを難しくする場面もありました。僧侶が病室に入ろうとすると、病院側から「まだ早い」と止められることがあったのです。僧侶が来る=もう最期が近い、という連想が働くためでしょう。死にゆく人に関わりたいと思っても、僧侶の肩書きがかえって壁になる。この現実も、鈴木の自負を静かに崩していきました。
理学療法士という資格が開いた扉
一方で、鈴木には理学療法士という資格がありました。僧侶としては「まだ早い」と止められても、理学療法士としてなら、生きている人に自然に関われたのです。「僧侶と理学療法士に交わる点はない」と思っていた二つの立場が、ここで思いがけず結びつきます。肩書きの一方が閉じた扉を、もう一方が開いていく。この経験は、彼に「肩書きとは何か」を問い直させることになりました。
| 僧侶という肩書き | 病室に入ろうとすると「まだ早い」と止められることがあった。僧侶が来る=もう最期が近い、という連想が働くため。関わりたくても、肩書きがかえって壁になった。 |
|---|---|
| 理学療法士という資格 | 同じ人物でありながら、理学療法士としてなら生きている人に自然に関われた。閉じていた扉が、もう一方の肩書きによって開いた。 |
「そうか、僧侶という役割は、生きている人にこそ本来は関わる役割なんじゃないかな」(鈴木秀彰)
お釈迦さまの姿を捉え直して、何に気づいたのか?
必要とされない現実のなかで、僧侶顧問・鈴木秀彰はお釈迦さま(釈迦)の姿をあらためて調べ直しました。そして気づきます。僧侶とは本来、死者に関わる存在ではなく、生きている人に関わる役割なのではないか、と。「僧侶=死後・看取り」という固定観念は、あくまで後世に定着したイメージであって、その原点に立ち返れば、僧侶は生きている人のそばにいる存在だった――。この捉え直しが、彼の立ち位置を大きく変えました。
そこから鈴木は、「僧侶」や「理学療法士」という肩書きで関わるのではなく、「鈴木個人として関わる」という姿勢に切り替えていきます。役割を背負って向き合うのではなく、一人の人間として、その人のそばにいる。肩書きを脇に置いたことで、かえって関わりの質が変わっていったのです。
なぜ「ただそばにいる」ことが役割になるのか?
会話にならない相手にも
僧侶顧問・鈴木秀彰が続けたのは、驚くほどシンプルなことでした。会話が成り立たない相手に対しても、ただそばにいる。話をする。雑談をする。それを、自分の役割として続けたのです。お経を唱えることでも、特別な儀式を行うことでもなく、ただそこに居つづける。一見すると、何もしていないようにも見えるかもしれません。けれど鈴木は、そこにこそ大きな意味があると気づいていきました。
「ただそばにいるということだけでも、すごく大きな役割」(鈴木秀彰)
なぜ、ただそばにいることが役割になるのか。鈴木は、多くの死を見送ってきた僧侶だからこそ、死を過度に怖がらずに、生きている人のそばにいられたのだと語ります。死に慣れているという意味ではありません。死を見つめ続けてきたからこそ、死にゆく人の前でも動揺せず、落ち着いてそばに居つづけられる。その姿勢そのものが、相手にとっての安心につながっていったのです。
「あなただから」という関係性
もう一つ、鈴木が大切にしたのは、関係性そのものの力です。ある人は、「他の人じゃなくて鈴木さんだから、ここにいてほしい」「鈴木さんがいるから、生きていていいんだ」という趣旨のことを伝えてくれたといいます。誰でもいいのではなく、「あなただから」。この固有の関係性が、相手に「生きていていい」という感覚をもたらしていました。
これは、役割やサービスに置き換えられない領域です。マニュアルどおりの対応でも、資格に裏打ちされた専門性でもなく、「他ならぬこの人がそばにいてくれる」という関係性。鈴木がたどり着いたのは、そうした固有の関わりが、人にとってどれほど大きな支えになるか、という気づきでした。
「鈴木さんだからここにいて(ほしい)……生きてていいんだ」(現場で聞いた言葉の趣旨)
肩書きを脇に置くと、何が見えてくるのか?
役割の外側にある関わり
僧侶顧問・鈴木秀彰の経験が示しているのは、肩書きや役割が、時に関わりの妨げにもなるという逆説です。「僧侶だから」と身構えれば、相手も身構える。「まだ早い」と止められる。けれど、肩書きを脇に置いて一人の人間として向き合ったとき、関わりの扉は静かに開いていきました。専門性や役割は大切ですが、それだけでは届かない領域が、確かにあるのです。
この視点は、ビジネスの現場にも通じるものがあります。役職や肩書きで相手に向き合うのか、それとも一人の人間として関わるのか。制度やサービスとして提供できることの外側に、「他ならぬあなただから」という関係性の領域が広がっています。そこにこそ、機械的な対応では届かない価値が宿ります。
「ただいる」ことの難しさ
最後に付け加えておきたいのは、「ただそばにいる」ことは、簡単そうに見えて実はとても難しい、ということです。何かをしてあげたい、役に立ちたいと思うほど、人は「行動」で埋めようとします。けれど、会話にならない相手の前で、焦らず、逃げ出さず、ただ居つづける。そこには、死を見つめ続けてきた鈴木だからこその落ち着きがありました。「何かをする」よりも「ともにいる」ことのほうが、時にずっと深く相手を支えることがあるのです。
「生きていていい」という安心は、どこから来るのか?
肯定でも励ましでもなく
その安心は、うまい言葉からではなく、関係の継続から生まれていました。「鈴木さんがいるから、生きていていいんだ」。この言葉には、少し立ち止まって考えたくなる重みがあります。それは、「あなたは価値がある」といった肯定の言葉でも、「がんばって」という励ましでもありません。ただ、特定の誰かがそばに居つづけているという事実そのものが、「ここに居ていい」「生きていていい」という感覚を相手のなかに生んでいる。安心は、うまい言葉からではなく、関係の継続から生まれていたのです。
僧侶顧問・鈴木秀彰がしていたのは、会話にならない相手にも、ただそばにいて、話をして、雑談をする、ということでした。特別な助言も、答えも差し出していません。それでも、逃げずに居つづけるその姿勢が、相手にとっての支えになっていました。何かを「与える」のではなく、「ともに居る」。そこに、人を安心させる静かな力があったのです。
関わりつづける、ということ
もう一つ見落とせないのは、「継続」の重みです。一度きり訪ねて言葉をかけるのではなく、繰り返しそばに居つづけること。その積み重ねが「他ならぬ鈴木さんだから」という固有の関係性を育てていきました。関係性は、一瞬でつくられるものではありません。逃げ出したくなる場面でも留まり、通いつづけた時間の厚みが、相手の安心を支えていたのです。これは、人と長く関わるすべての営みに通じる普遍的な事実だと言えるでしょう。
まとめ――「生きている人」に、一人の人間として関わる
「死にゆく人に僧侶は必要とされる」という自負が崩れたあと、鈴木秀彰はお釈迦さまの姿を捉え直し、「僧侶は本来、生きている人にこそ関わる役割ではないか」という気づきにたどり着きました。肩書きを脇に置き、鈴木個人として、会話にならない相手にもただそばにいる。その関わりが、「あなただから」という固有の関係性となり、相手に「生きていていい」という安心をもたらしました。役割の外側にこそ、機械的な対応では届かない価値がある――彼の経験は、そう静かに伝えています。
僧侶顧問は、経営者や事業に関わる方の隣に、一人の人間として伴走します。制度やサービスでは届かない、「本当は、どうありたいのか」という問い。答えを急がず、ただ問いのそばに居つづける。鈴木が現場で大切にしてきた「ともにいる」姿勢を、経営や組織の場面に持ち込みます。
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