葬儀で「残された人にどう受け取られるか」を考える視点と、経営で「自社のサービス・商品・会社が社会にどう受け入れられ、支持されるか」を考える視点は全く同じ——僧侶顧問・鈴木秀彰はそう語ります。彼はいろんな葬儀を執り行う中で、残された人に「この葬式をやって良かった」と思ってもらうための設計を考えるようになり、その視点をそのまま経営に接続して捉えるようになりました。
これは、僧侶顧問の代表・鈴木秀彰自身の言葉にもとづくコラムです。葬儀と経営を並べて語ることには、抵抗を感じる方もいるかもしれません。ただ、彼がこの二つを重ねるとき、出発点にあるのは効率でも手法でもなく「残された人のため」という一点です。その順番を守ったまま、彼の言う「全く一緒」がどういう意味なのかをたどります。(2026年7月時点)
葬式は、残された人にどんな影響を与えるのか?
供養は当然。その反面で考えていたこと
「葬式は残された人にどんな影響を与えますか」——この問いに対して、鈴木秀彰はまず前提を確認します。供養なのだから、亡くなった人に供養するのは当然だ、と。
そのうえで、彼は「反面」を置きます。
「残された人がどういうふうにこの亡くなった人を捉えるかということも大事じゃないかな。」(鈴木秀彰)
ここで語られているのは、葬儀が持つもう一つの働きです。葬式という時間を通して、残された人が、亡くなった人をどう捉えるか。その捉え方は、その場で終わるものではありません。残された人はその後の人生を続けていくからです。
亡くなった方への供養と、残された人への影響。この二つは対立するものではなく、同じ場で同時に起きています。彼が「反面」と言うのは、優先順位の話ではなく、見落とされやすいほうの面を指しているのだと読めます。
「やって良かった」と思ってもらうために、何を考えたか
この視点を持ったとき、僧侶が考えることは具体的に変わります。鈴木の言葉です。
「この葬式をやって良かったなと思ってもらうためには、どういうふうに演出というか、どういう言葉かけであったりとか、どういう存在で役割であるべきかな、というのはすごく考えるようになりました。」(鈴木秀彰)
三つのことが挙がっています。どういう演出にするか。どういう言葉かけをするか。どういう存在・役割であるべきか。
注目したいのは、三つ目です。演出と言葉かけは、いわば手立ての話です。けれど「どういう存在・役割であるべきか」は、自分自身の立ち位置の話になります。何をするかだけでなく、そこにどう在るか。この三つ目が入っているところに、この視点の性質が出ています。
そしてもう一点。彼は「すごく考えるようになりました」と言っています。最初から持っていた視点ではない、ということです。いろんな葬儀を執り行う中で、後から身についていった。
なぜ葬儀の視点が、経営の視点と同じなのか?
本人は「全く一緒」だと言う
鈴木は、この視点をそのまま経営に接続して捉えるようになりました。彼の言葉です。
「自分の会社をどういうサービスであったり、どういう商品であったり、どういう会社として存在していることが社会にとって受け入れられるか、支持されるかということを考えることは全く一緒だと思っていまして。」(鈴木秀彰)
並べてみると、構造がはっきりします。
| 葬儀の場で考えること | 残された人に「この葬式をやって良かった」と思ってもらうために、どういう演出・言葉かけ・存在/役割であるべきかを考える。 |
|---|---|
| 経営で考えること | 自社がどういうサービス・商品・会社として存在していれば、社会に受け入れられ、支持されるかを考える。 |
※上表は、鈴木秀彰本人の見立てを整理したものです。
どちらも、受け取る人の側から逆算しています。自分が何を提供したいかではなく、相手にどう受け取られるか。そして興味深いことに、両方に「どういう存在であるべきか」という問いが含まれています。会社について彼が言うのも、何を売るかではなく「どういう会社として存在していることが」受け入れられるか、です。
この視点は「導く」ところまで含んでいる
鈴木は、経営の側についてもう少し具体的に語っています。この会社の製品がユーザーにどう使われれば、ユーザーはどういう成果・幸せを得られるか、そしてそこへ導く——これも葬儀で残された人を導く視点と同じ構造だ、というのが彼の見立てです。
「導く」という言葉が入ることで、この視点は受け身の想像とは違うものになります。相手がどう受け取るかを想像するだけでなく、受け取った先で何が起きてほしいのかまで含めて考える。葬儀であれば、残された人がその後どう生きていくか。事業であれば、ユーザーがその製品を使った先で何を得るか。
ただし、本人は留保をつけている
この視点について、鈴木は「僧侶顧問としては、戦略的なところ」かもしれない、と留保をつけながら語っています。活用できるポイントだ、という位置づけです。
この留保は、そのまま受け取っておくべきものだと思われます。彼はこの視点を、経営の万能の答えとしては提示していません。効果を保証しているわけでもない。葬儀の現場で身につけた見方が、経営にも当てはまると本人は感じています。
なお、この記事で扱っているのは「受け手の側から設計する」という視点の相似です。経営者が死生観を持つことそのものについては、経営者にこそ死生観が根づく理由で別の角度から扱っています。あちらは有限性が事業を動かすという話で、こちらは受け手の設計の話です。
葬儀を経営にたとえることは、不謹慎ではないのか?
順番が逆になると、意味が変わる
この話には、注意して扱うべき点があります。手法の話に要約してしまうと、まったく別の話になってしまうからです。
鈴木の語りの順番を確認しておきます。彼はまず、葬儀の現場で「残された人のため」という視点にたどり着きました。それは、経営に応用するために身につけたものとしては語られていません。いろんな葬儀を執り行う中で、後から気づいていったことです。そのあとで、同じ構造が経営にもあると気づいた。
順番が逆——つまり経営の手法を葬儀に持ち込む——であれば、これは不謹慎な話になったはずです。けれど彼が歩いたのは逆方向でした。葬儀で身につけた、受け取る人を思う視点。それが経営にも通じていた、という順番です。
この順番を守るなら、この見立てが言っているのはこういうことになります。受け取る人の側から考えるという営みは、葬儀にも経営にも共通して存在する。それは効率のための技法ではなく、相手を思うという一点から出てきたものだ、と。
まとめ——受け手の側から考える、という一点
葬儀で「残された人にどう受け取られるか」を考える視点と、経営で「自社が社会にどう受け入れられ、支持されるか」を考える視点は全く同じ——それが僧侶顧問・鈴木秀彰の見立てです。
彼はいろんな葬儀を執り行う中で、残された人に「この葬式をやって良かった」と思ってもらうために、どういう演出・言葉かけ・存在であるべきかを考えるようになりました。最初から持っていた視点ではありません。そして、その視点をそのまま経営に接続して捉えるようになった。どちらも、受け取る人の側から逆算し、「どういう存在であるべきか」を問うている点で共通しています。
本人はこれを「戦略的なところかもしれない」と留保しながら語ります。答えとしてではなく、活用できるかもしれない視点として。
僧侶顧問は、経営者や事業に関わる方の隣で、答えを急がずに問いを重ねます。自社が誰にどう受け取られているかを、いったん外から眺め直す時間が要ることもあります。
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