Column

肩書きではなく「個人」として関わる——僧侶顧問の原点

「鈴木さんだから」という関係性に、鈴木秀彰がたどり着くまで

僧侶顧問というサービスの根っこには、「肩書きを外して、一人の個人として関わる」という姿勢があります。その原点は、ホスピスの現場での気づきにありました。代表・鈴木秀彰自身の経験からたどります。

この記事の要点

僧侶顧問が肩書きではなく個人として関わるのは、ホスピスの現場で「僧侶という役割」がほとんど必要とされなかったという経験が原点にあるからです。僧侶顧問・鈴木秀彰は釈迦に立ち返り、「僧侶は本来、生きている人にこそ関わる役割」と捉え直しました。肩書きを脇に置き、一人の個人としてただそばにいる。そこで受け取った「鈴木さんだから」という言葉が、役割ではなく関係性そのものが相手の安心になることを示しています。

これは、僧侶顧問の代表・鈴木秀彰自身の経験にもとづくコラムです。「僧侶顧問」という名前を聞くと、多くの方は「僧侶という肩書きの人が助言してくれるサービス」だと想像されるかもしれません。けれど、鈴木がこの仕事の根っこに置いているのは、むしろ逆の姿勢です。僧侶という肩書きも、理学療法士という肩書きも一度外して、「鈴木秀彰という一人の個人」として相手のそばにいる——ここに僧侶顧問の原点があります。なぜ彼は、肩書きではなく個人として関わることにたどり着いたのでしょうか。その原点を、ホスピスでの経験からたどります。(2026年7月時点)

なぜホスピスで「僧侶」という役割は必要とされなかったのか?

僧侶という立場では、そばに行けないことがあった

作務衣姿で静かに佇む落ち着いた日本人のポートレート

ホスピスで僧侶という役割が必要とされなかったのは、僧侶の話を求める人がごく一部にとどまり、さらに僧侶という立場そのものが壁になったからです。僧侶顧問・鈴木秀彰は僧侶であり、理学療法士でもあります。「僧侶と理学療法士に交わる点はない」と思いつつも、ホスピスには理学療法士として勤めました。当初、彼は「死にゆく人に僧侶という役割は必要とされるはずだ」と自負していました。しかし現場の現実は、その自負を静かにくずしていきます。

求められなかった僧侶の話を聞きたい、お経を唱えてほしい——そう求める人は、ごく一部にとどまった。
壁になった僧侶が病室に入ろうとすると「まだ早い」と受け止められ、関わることができない。死を連想させる役割だからこそ、生きている人のそばに行きにくかった。

※求められた割合について鈴木は「100人に1人ほど」と語る一方、別の場面では異なる数字にも触れており、正確な比率は特定していません。

皮肉なことに、彼が生きている人に関われたのは、理学療法士という別の資格を持っていたからでした。

僧侶が「肩書きを外す」とは、どういうことか?

僧侶は本来、生きている人に関わる役割

肩書きを外すとは、「僧侶として」でも「理学療法士として」でもなく、一人の人間として生きている相手のそばにいることです。役割として必要とされない現実に直面した僧侶顧問・鈴木秀彰は、お釈迦さん(釈迦)の姿を調べ直します。そこで得たのが、次の捉え直しでした。

「そうか、僧侶という役割は、生きている人にこそ本来は関わる役割なんじゃないかな。」(鈴木秀彰)

この気づきは、彼の立ち位置を大きく変えました。「僧侶として死後に関わる」でも「理学療法士として身体に関わる」でもなく、肩書きをいったん脇に置いて、鈴木という一人の人間として、生きている相手のそばにいる。役割で相手に近づくのではなく、個人として関わる。この転換こそが、のちの僧侶顧問の姿勢の原点になりました。

付け加えれば、この捉え直しは、僧侶の仕事を否定するものではありません。死者を弔い、儀式を担うことの大切さは少しも変わりません。ただ鈴木は、そこに「生きている人のそばにいる」という、もう一つの本来の役割を見いだしたのです。

ただ、そばにいる

少し離れて座っていた二人の距離が縮まっていくような穏やかな対話の場面

肩書きを外した鈴木がしたことは、驚くほどシンプルでした。会話が成り立たない相手のそばにも、ただ座り、話しかけ、雑談をする。特別な助言をするわけでも、儀式を執り行うわけでもありません。それでも、彼はそこに確かな役割を見いだしました。

「ただそばにいるということだけでも、すごく大きな役割。」(鈴木秀彰)

特別なことをしない、というのは簡単なようでいて、実は難しいことです。人はつい、何か役に立つことを言おう、問題を解決しようと前のめりになります。けれど鈴木がホスピスで学んだのは、答えを差し出すことよりも、相手の時間にただ居合わせることのほうが、時に大きな意味を持つということでした。肩書きを掲げて「何かをしてあげる」のではなく、個人として「ともにいる」。その引き算の関わりが、かえって相手の心をほどいていきました。

なぜ肩書きではなく「この人だから」が安心につながるのか?

役割ではなく、この人だから

肩書きは相手を安心させる入り口にはなっても、最後に効いてくるのは「この人だから」という個別の信頼です。そばにいることを続けるうちに、僧侶顧問・鈴木秀彰は相手からこんな言葉を受け取るようになります。

「鈴木さんだから、ここにいて(いい)。……生きてていいんだ。」(鈴木秀彰が現場で受け取った言葉)

ここには大切な逆転があります。「僧侶だから」でも「療法士だから」でもなく、「ほかの誰でもない鈴木さんだから」。役割ではなく、その人との関係性そのものが、相手にとっての安心——「自分は生きていていいんだ」という感覚——につながっていったのです。

多くの死を見てきたからこそ、そばにいられた

付け加えておきたいのは、鈴木が肩書きを外せたのは、僧侶としての経験を捨てたからではない、ということです。むしろ逆で、これまで多くの死と向き合ってきたからこそ、彼は死を過度に怖がらず、死にゆく人のそばに落ち着いていられました。肩書きを外すことと、これまでの積み重ねを土台にすることは、矛盾しません。積み重ねがあるからこそ、肩書きに寄りかからずに、個人として立てるのです。

この原点は、いまの僧侶顧問の関わり方にそのまま流れ込んでいます。経営者や事業に関わる方と向き合うときも、鈴木はまず「僧侶が助言する」という構図を脇に置きます。肩書きが前に出すぎると、相手は本音ではなく「僧侶に期待される正解」を探してしまうからです。肩書きをいったん外し、一人の個人として同じ目線に立つ。そうしてはじめて、相手は鎧を脱ぎ、本当に迷っていることを口にできます。

まとめ——僧侶顧問は、肩書きの前に「個人」でありたい

僧侶顧問というサービスの原点は、ホスピスの現場で鈴木秀彰がたどり着いた一つの姿勢にあります。役割として必要とされなかった経験、釈迦に立ち返って得た「僧侶は生きている人にこそ関わる」という捉え直し、そして「鈴木さんだから」という関係性が相手の安心になった実感。ここから彼は、肩書きの前にまず一人の個人として相手のそばにいる、という関わり方を選びました。僧侶顧問が大切にしているのは、立派な助言よりも先に、「この人になら話せる」という関係性そのものです。

僧侶顧問は、経営者や事業に関わる方が抱える迷いや問いに、肩書きではなく一人の個人として隣で伴走します。すぐに答えを出すことよりも、まずそばにいて、言葉になるのを待つ。鈴木自身が現場で体得してきた関わり方だからこそ、その距離感を大切にできます。

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