Column

「法人を設立していますか?」——その一言で失注したとき、僧侶は法人設立を決めた

鈴木秀彰が個人事業から法人へ踏み出した、二つの理由

僧侶顧問・鈴木秀彰が法人を設立したきっかけは、企業からの依頼を目の前で失った経験と、自分の中にたまっていた小さな違和感でした。代表・鈴木秀彰自身の体験からたどります。

この記事の要点

僧侶顧問・鈴木秀彰が法人設立を決めたきっかけは、二つの出来事が重なったことでした。一つは、企業から「哲学の時間」の依頼を受けながら「鈴木さんは法人を設立、経営者さんですか?」と問われ、失注したこと。もう一つは、「経営者ではない自分が経営を語っていいのか」というもやもやを内側に抱えていたことです。この二つが同時に嫌になったタイミングで、彼は法人を設立しました。

これは、僧侶顧問の代表・鈴木秀彰自身の経験にもとづくコラムです。法人を設立するかどうか——個人で活動している方なら、一度は迷う分かれ道ではないでしょうか。鈴木がその一歩を踏み出したきっかけは、ある企業との一度の商談と、そこで投げかけられた一つの問いでした。(2026年7月時点)

なぜ企業は僧侶に「哲学の時間」を依頼したのか?

新入社員が「生きる軸」に触れる機会が減っている、という問題意識

真剣に相談し合う日本人の担当者と落ち着いた相談相手のクローズアップ

その企業が鈴木秀彰に依頼したのは、「最近の新入社員は、学校で哲学や道徳の時間に触れる機会が少ないのではないか」という企業側の問題意識があったからです。※これは依頼主が語った受け止めであり、教育制度の実態を示すものではありません。当時、鈴木は死生観をテーマにしたプログラムに取り組んでいました。それ以前にも企業へ「哲学の時間」を届けた経験があり、その活動を紹介した記事を読んだ担当者から連絡が入ります。

依頼の趣旨は明快でした。若手社員が「生きる軸」に触れる機会が減っているのなら、僧侶であり、実際にそうした活動をしている人に、社内でその時間を作ってほしい——。鈴木にとっては、自分の活動がそのまま求められた依頼です。

※依頼元の企業名・時期、活動を紹介した記事の媒体名は、本人の語りの中では特定されていません。ここでは「ある企業」「ある記事」として記します。

なぜ、その依頼は失注したのか?

「鈴木さんは法人を設立、経営者さんですか?」

依頼が流れた直接のきっかけは、法人を設立していなかったことでした。話が進む中で、依頼主は鈴木にこう強く問いかけます。

「鈴木さんは法人を設立、経営者さんですか?」(依頼主の問い)

この問いを受けた瞬間、鈴木の頭には、以前から先輩経営者に聞かされていた話がよぎりました。「法人を設立していないことで失注することがある」——耳にはしていたけれど、自分の身に起きるとは思っていなかった話です。

彼が感じたのは、驚きよりも観念に近いものでした。「ついに来たか」。そして実際に、この依頼は失注に終わります。相手は「哲学の時間」そのものには強い興味を持っていました。内容が否定されたわけではありません。それでも、話は前に進みませんでした。

興味はあった依頼主は「哲学の時間」の内容に強い関心を持っていた。提案の中身が否定されたわけではない。
それでも失注した法人を設立していないことが問われ、依頼は成立しなかった。
本人の受け止め「責任や覚悟を持っていないと捉えられたのではないか」と鈴木は振り返る。

興味を持たれながら選ばれない、というのは、内容を断られるよりこたえる経験かもしれません。個人事業のままでは、相手——特に企業や経営者層——から「覚悟や責任」の面で信用されず、機会そのものを失うことがある。これは一般論ではなく、鈴木が身をもって知った現実でした。

先輩経営者から「法人を設立していないことで失注することがある」と聞いていたにもかかわらず、それが自分の身に起きるとは思っていなかった——この落差にも意味があります。聞いて知っていることと、実際に目の前で依頼が流れることは、まったく別の重さを持ちます。知識としては入っていたはずの話が、体験になって初めて動く理由に変わった。鈴木の場合、その順番でした。

失注よりも彼を動かした「もやもや」とは何か?

経営者ではない自分が、経営を語っていいのか

実は、法人設立を決めた理由は失注だけではありません。もう一つは、誰からも指摘されていないのに、鈴木が自分の中で抱え続けていた違和感でした。

法人を設立する前から、彼は「経営と仏教」というテーマで何度か講演をしていました。依頼をいただければ応える。それが彼の姿勢です。けれどマイクを持つたび、内心には小さな引っかかりが残りました。

「鈴木が経営者じゃないのに経営を語る? というのはちょっとおかしいんじゃないかな。」(鈴木秀彰)

ここで注目したいのは、鈴木自身が「この違和感を他人から指摘されたことは一度もない」と明言している点です。聴衆からも主催者からも、資格を問われたわけではない。つまりこれは、外から刺されたトゲではなく、自分の内側に澱のようにたまっていったものでした。

自分が実践していないことを語る——その居心地の悪さは、誰にも見つからなくても、本人の中では静かに積もっていきます。そして厄介なことに、外から指摘されない違和感は、外からの一言で解消されることもありません。

なぜ「このタイミング」で法人を設立したのか?

外からの現実と、内側の違和感が重なった

手帳とカレンダーを前に静かに計画を立てる日本人ビジネスパーソンの手元

鈴木が法人設立に踏み切ったのは、「哲学の時間」の失注と、経営を語る上でのもやもや——この二つが同時に嫌になったからでした。彼自身、この二つを並べて決断の理由として語っています。

片方だけなら、決断は先に延びていたのかもしれません。失注しても「今回は縁がなかった」で終わらせることはできます。もやもやも、抱えたまま講演を続けることはできたでしょう。けれど、外から突きつけられた現実と、内側にたまっていた違和感が同じ時期に重なったとき、それは「動く理由」になりました。

痛い経験が次の決断の引き金になる、というのはよく聞く話です。ただ鈴木のケースが示しているのは、痛みだけでは足りないのかもしれない、ということです。失注という外側の出来事が、内側にずっとあった問いに輪郭を与えた。「経営者ではない自分」という引っかかりは、法人を設立するという行動によってしか解けないものでした。

語る立場を、実践する立場に変える

法人設立は、鈴木にとって手続き上の変更ではありませんでした。経営を語る人から、経営を実践する人へ——立場そのものを移す選択です。もやもやを言葉で整理して納得するのではなく、実践する側に自分を置くことで解消する。彼が選んだのは、そういう解き方でした。

※この記事は鈴木秀彰個人の転機の体験談です。法人設立の手続きや税制については扱いません。制度面の判断は、それぞれの専門家にご相談ください。

まとめ——決断は、外からの一言と内側の澱が重なるとき

僧侶顧問・鈴木秀彰の法人設立は、「鈴木さんは法人を設立、経営者さんですか?」という依頼主の一言から始まりました。興味を持たれながら失注したという外側の現実。そして「経営者ではない自分が経営を語っていいのか」という、誰にも指摘されない内側の違和感。この二つが重なったタイミングで、彼は法人を設立し、語る立場から実践する立場へ移りました。

僧侶顧問は、経営者や事業に関わる方が抱える迷いや問いに、一人の個人として隣で伴走します。鈴木自身が「実践していないことを語る違和感」を引き受け、決断してきたからこそ、決めきれない時間の重さもわかります。

初回相談(30分無料)を申し込む