Column

死生観プログラムは企業に受け入れられなかった——僧侶が経営者に悩みを聞き始めるまで

届けたいものより、相手の困りごとから入る

僧侶顧問・鈴木秀彰が、自分の届けたかったプログラムが企業に届かなかった現実と、そこからの方向転換について語ります。

この記事の要点

僧侶顧問・鈴木秀彰は当初、死生観プログラムを企業研修として届けようとして受け入れられなかったと語ります。理由は本人の分析で二つ。死生観というテーマの宗教性と、「死生観」という言葉自体の耳慣れなさです。彼はそこで「自分が何を届けたいか」を押し出すのをやめ、経営者に「何に困っているか」を聞き始めました。本人は今も「完成形はまだこれだと言えず、作っている段階」と明言しています。

これは、僧侶顧問の代表・鈴木秀彰自身の体験にもとづくコラムです。届けたいものがある。価値があると信じている。それでも、受け取ってもらえない——事業をしていれば、多くの人が通る場面かもしれません。鈴木の場合、それは「死生観」という、彼が当時届けたいと考えていたテーマそのものでした。うまくいった話ではなく、うまくいかなかった話です。(2026年7月時点)

なぜ死生観を「企業研修」として届けようとしたのか?

いろんな人がいる場所は、会社だった

相談相手と並んで穏やかに話す日本人ビジネスパーソンの場面。和モダンな空間

鈴木秀彰の当初の狙いは、はっきりしていました。死生観プログラムを、いろんな方に受けてもらいたい。そして、いろんな人がいる場所はどこかと考えれば、それは会社です。だから企業研修として受けてもらいたいと思って始めた——という筋道でした。

この発想自体には、無理がありません。多様な人が日常的に集まっている場所を探せば、たしかに職場は有力な候補です。個人に一人ずつ届けるより、届く範囲も広い。

けれど、この時点で彼が立てていた問いは「自分が届けたいものを、どこに届けるか」でした。起点は、あくまで自分の側にあります。

なぜ、企業には届かなかったのか?

宗教的だと受け取られ、言葉自体も耳慣れなかった

ぶつかったのは、次のような現実でした。

「死生観というところで、やはり宗教的なところで今の日本社会ではなかなか受け入れがたい。」(鈴木秀彰)

※これは鈴木秀彰本人の実感・見立てです。統計や社会調査にもとづく事実認定ではありません。

彼の分析は二つに分かれます。

テーマの宗教性死生観というテーマには宗教的なところがあり、今の日本社会では受け入れがたい——という本人の受け止め。
言葉の耳慣れなさ「死生観」という言葉自体が、あまり聞き慣れない言葉である。入り口で意味が伝わらない。

※上表は、鈴木秀彰本人の分析にもとづく整理です。

この二つは、性質が違います。宗教性のほうは、内容に対する警戒です。企業という場に宗教的なものを持ち込むことへの慎重さは、想像に難くありません。一方の耳慣れなさは、もっと手前の問題です。警戒される以前に、そもそも何の話なのかが伝わらない。

本人の言葉では、「その現実を突きつけられて」となります。突きつけられた、という表現に、そのときの手応えのなさがそのまま残っています。

そして「結局、僧侶って何ができるんですか」と聞かれた

もうひとつ、鈴木が繰り返し受け取った反応があります。経営者に話を聞くようになってから、彼はこの質問を非常に多くもらうようになりました。

「結局、僧侶って何ができるんですかっていう質問をすごくいただくことが多くて。」(鈴木秀彰)

これは、なかなか厳しい問いです。悪意のある質問ではないでしょう。ただ、その素朴さゆえに逃げ場がありません。僧侶という存在は知られている。けれど、それが企業に対して何をする存在なのかは、まったく共有されていない。

届かなかった理由と、この問いは地続きです。プログラムが受け入れられなかったのも、「僧侶に何ができるのか」が分からなかったからだ、と考えれば筋が通ります。

死生観が届かないと分かったとき、何を変えたのか?

逆転の発想——相手が何に困っているかを聞く

鈴木が選んだのは、届け方を工夫することではありませんでした。問いの向きを、逆にしたのです。

「自分は何を届けたいか」ではなく、「経営者・企業は何に悩み、何に困っているのか」。彼は経営者へのインタビューを始めました。

この転換の構造は、シンプルです。プロダクトアウトからマーケットインへ、と言い換えることもできます。自分の持ち物を起点にするのをやめ、相手の困りごとを起点にする。

ただ、言葉にすると当たり前に聞こえるこの転換が、実際には難しいことも確かです。届けたかったのは、彼が当時届けたいと考えていたテーマでした。それが受け入れられないと分かったとき、届け方をもっと工夫する、言葉を変えてみる、諦めずに続ける——という方向もありえたはずです。彼はそうせず、いったん自分の届けたいものを脇に置きました。

経営者から出てきた、五つの悩み

墨色のグラデーションに金色の光がわずかに差す、静謐でミニマルな和の抽象背景

聞き始めてみると、経営者からは次のような悩みが挙がりました。

  • 採用
  • 営業の戦略
  • 新規事業の作り方
  • 人材育成(どういう人材を育てればいいか)
  • 組織の作り方

並べてみると、死生観という言葉はどこにも出てきません。これが、突きつけられた現実の中身です。彼が届けたかったものと、相手が困っていたことのあいだには、そもそも共通の言葉がなかった。

ここで鈴木がしたのは、これらの悩みに対して仏教的な視点や、自身のこれまでのキャリア、見てきた多くの人の事例から「こうやったらいいのではないか」と共に考えることでした。

「共に考える」という言い方は、正確に受け取る必要があります。彼は「解決する」とも「成果を出す」とも言っていません。採用がうまくいくとも、売上が上がるとも言っていない。あくまで、一緒に考える立場に立った、ということです。

僧侶は、どこまでを引き受けるのか?

成果を上げるスキルは、プロフェッショナルに任せる

方向転換の結果として、鈴木は自分の役割に明確な線を引いています。

「成果を上げるためのスキルというところは、すごく私以外の本当にいろんなプロフェッショナルがいると思いますね。その方たちにぜひお任せしたいなと思います。」(鈴木秀彰)

経営者の悩みを聞いたからといって、そのすべてを自分が引き受けるわけではない。採用の実務、営業の戦略、組織づくり——それぞれに専門家がいます。彼はそこに踏み込まず、任せると言い切っています。「私も何かそういうご縁があればそこにつなげたいなと思います」とも語っています。

悩みを聞くことと、悩みを自分で解決することは、別だということです。この線引きがあるからこそ、聞くという行為が成立しているとも言えます。

では、僧侶に何ができるのか

「結局、僧侶って何ができるんですか」という問いに、彼はまだ完成した答えを持っていません。現時点での彼の答えは、創業者の思いに関わることです。なぜこの事業をしたいのか、なぜこの商品を届けたいのか——その本質的な土台を、しっかり明文化していく・考えていく・捉えていくこと。それが僧侶として社会に実装できる役割ではないか、と彼は現時点で考えています。

※この「創業の思いを明文化する」という役割については、別の記事であらためて扱います。

ここで大事なのは、鈴木自身がこれを完成形として語っていないことです。

「完成形はまだこれだっていうのは、まだ作っている段階ではございます。」(鈴木秀彰)

受け入れられなかったところから始まって、聞く側に回り、線を引き、現時点での答えにたどり着いた。けれどそれも途中経過だ、と本人は言います。

まとめ——届かなかったことが、問いの向きを変えた

僧侶顧問・鈴木秀彰は当初、死生観プログラムを企業研修として届けようとして、受け入れられませんでした。本人の分析によれば、理由はテーマの宗教性と、「死生観」という言葉自体の耳慣れなさ。彼はその現実を突きつけられました。

そこで彼が変えたのは、届け方ではなく問いの向きでした。「自分は何を届けたいか」をいったん脇に置き、「経営者は何に困っているのか」を聞き始めた。挙がってきたのは、採用・営業の戦略・新規事業の作り方・人材育成・組織の作り方——死生観という言葉が一度も出てこないリストです。彼はそれらに対し、成果を上げるスキルは他のプロフェッショナルに任せると線を引いたうえで、共に考える立場に立ちました。

そして今も「完成形はまだ作っている段階」だと語ります。受け入れられなかった経験が、届け方の改善ではなく、立ち位置そのものの変更につながった——鈴木の体験は、そういう筋道をたどっています。

僧侶顧問は、経営者や事業に関わる方の隣で、答えを急がずに問いを重ねます。何に困っているのかを言葉にするところから始めることもできます。

初回相談(30分無料)を申し込む