日本人が死を語らないのは、「終わってしまう」ことへの怖さと、核家族化によって死に触れる機会が減ったことが背景にあります。僧侶顧問・鈴木秀彰ですら、飲み会で「死について語ろう」と切り出すと「病んでるのか」と返されるほどです。誰かが禁じたわけでもないのに、「なんとなく話してはいけない」という空気が植え付けられている。けれど死を考えることは、生きること・今を考えることと地続きです。
これは、僧侶顧問の代表・鈴木秀彰自身の視点にもとづくコラムです。「死について語ろう」と言うと、たいていの場面では空気が固まります。おもしろいことに、僧侶である鈴木自身ですら例外ではありません。飲み会で「今日は死について語ろう」と切り出すと、「おいおい、大丈夫か。病んでるのか」と返されてしまうのだといいます。僧侶がそう言われるのだから、一般の人ならなおさらでしょう。ではなぜ、日本ではこれほどまでに死が語りにくいのか。この記事では、その背景と、それでも死を語ることの意味を考えます。(2026年7月時点)
なぜ日本では死がタブー視されるのか?
僧侶ですら「病んでる?」と言われる
昔から、死は「不吉」「あんまり考えたくない」「縁起でもない」ものとして扱われてきました。多くの人にとって、死は日常の会話の中で持ち出すべきではない話題です。僧侶顧問・鈴木秀彰は、この空気を身をもって感じています。僧侶という、死にもっとも近い仕事をしている人間でさえ、飲み会の席で死を話題にすれば「病んでるのか」と心配されてしまう。まして一般の人が友人に「今日は死について語ろう」と言えば、「酒の席にふさわしくない」と敬遠されるのは想像に難くありません。
「僧侶である私ですら、飲み会で『死について語ろう』と言うと、『おいおい、大丈夫か、病んでるのか』と言われる」(鈴木秀彰)
根っこにあるのは「終わってしまう」怖さ
ではなぜ、死はここまで語りにくいのか。鈴木が考える理由の一つは、「終わってしまう」ことへの怖さです。自分がどうなってしまうのか分からない。すべてが終わるかもしれない。その底知れなさが、死を「できれば触れたくないもの」にしています。怖いからこそ語られなくなり、語られないからこそ、ますます得体の知れない、暗いイメージだけが膨らんでいく。こうして死は、いつのまにか「話してはいけないこと」として、私たちの中に刷り込まれていきます。
なぜ現代は、死に触れる機会が減ったのか?
死がタブー視されるもう一つの理由として、僧侶顧問・鈴木秀彰が挙げるのが、核家族化による死に触れる機会そのものの減少です。かつては、祖父母と同じ家で暮らし、身近な人の最期に立ち会うことも、今より多くありました。ところが核家族化が進み、祖父母と暮らさない家庭が増えたことで、死ぬ現場に関わる機会は大きく減っています。
死が生活から遠ざかれば、当然、死について考える機会も減っていきます。身近に感じられないものは、リアルな問いにはなりにくい。こうして「語る現場もなく、語ろうとすれば妙な空気になる」という状況が、静かに固まっていきました。それでも、死が気になっている人は一定数、確かにいます。ただ、その気持ちを口に出す場所がないだけなのです。
「タブー」は、いつのまにか植え付けられている
鈴木は、死のタブー視について、こんなふうにも表現します。死には暗いイメージがあり、どこか勝手に「話してはいけないこと」という概念ができあがってしまっている。とりわけ日本では、その感覚が強く植え付けられているのではないか、と。誰かが明確に禁じたわけではないのに、なんとなく避ける。この「なんとなく」の空気こそが、死を語りにくくしている正体なのかもしれません。
なぜ死は「率先して」考えるべき問いなのか?
死を考えることは、生を考えること
死を率先して考えるべきなのは、死について考えることが、そのまま「生きること」「今を考えること」につながっていくからです。死生観を語る場を続ける中で、僧侶顧問・鈴木秀彰の実感は逆の方向に向かっています。死は、避けるべき縁起でもない話題ではなく、むしろとても大事な問いだ——。次のような自分の行動の軸は、「いつか終わりが来る」という前提を抜きにしては定まりません。
- どう生きるべきか
- どう働くべきか
- どう学ぶべきか
「この問いはタブー視するべきではなくて、むしろ率先して死を考えていくこと」(鈴木秀彰)
タブーを外すと、行動指針が見えてくる
死をタブーの箱に閉じ込めているあいだは、その問いが持つ力も封じられたままです。逆に、死を率先して見つめてみると、「では、限られた時間で何を大切にしたいのか」という具体的な問いが立ち上がってきます。それは、日々の働き方や生き方を選ぶうえでの、確かな指針になります。死を語ることは、暗い場所に沈むことではなく、自分の行動の軸を照らし出す作業なのです。
もちろん、死は繊細なテーマです。つらい経験の直後にある人に、無理に語らせる必要はありません。ここで言いたいのは、「語りたい人が、安心して語れる場があってよい」ということです。タブーという蓋を少しだけ外してみる。それだけで、これまで言葉にできなかった問いが、静かに動き出すことがあります。
「語れないこと」は、職場にもある
死をめぐるこの「なんとなく避ける」感覚は、実は死に限った話ではありません。組織の中にも、大切なのに口に出しにくいテーマは数多くあります。
- 会社の先行きへの不安
- 辞めたいという気持ち
- 評価への納得のいかなさ
どれも、場の空気を重くしそうで飲み込まれがちです。けれども、飲み込まれた言葉は消えるわけではなく、静かに澱のようにたまっていきます。死を語る場で僧侶顧問・鈴木秀彰が見てきたのは、「語れなかったことを、ようやく語れた」ときに人の表情がほどけていく様子でした。同じことは、働く現場でも起こり得ます。避けられてきた問いを、安心して言葉にできる余白がある。それだけで、組織の風通しは静かに変わっていきます。
まとめ——「なんとなく避ける」を、少しだけ手放す
日本で死が語りにくいのは、「終わってしまう」怖さと、死に触れる機会が減った現代の暮らしが背景にあります。誰かが禁じたわけでもないのに、「なんとなく話してはいけない」という空気が、いつのまにか植え付けられている。けれども、死について考えることは、生きること・今を考えることと地続きです。だからこそ鈴木秀彰は、死をタブー視するのではなく、率先して考えていくことを大切にしています。「なんとなく避ける」を少しだけ手放したとき、自分がどう生き、どう働きたいのかという問いが、輪郭を持ちはじめます。
僧侶顧問は、経営者や組織に関わる方が、日々の忙しさの中で置き去りにしがちな「本当は、どうありたいのか」という問いに、隣で伴走します。答えを急がせず、語りにくいことを語れる余白をつくる。代表・鈴木秀彰が死生観の場で培ってきた姿勢を、そのまま企業の現場に届けます。
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