周囲の総意と自分の感覚が食い違うとき、僧侶顧問・鈴木秀彰が軸に据えたのは「自分が死ぬ時に後悔しない道は何か」という、たった一つの問いでした。目先の損得や他人の期待ではなく、人生の最後から逆算して選ぶ。この基準は後悔をゼロにする魔法ではありませんが、後悔の"質"を変えます。他人に決めてもらった結果への後悔と、自分で選び取った結果への後悔は、同じ重さではないからです。
これは、僧侶顧問の代表・鈴木秀彰自身の経験にもとづくコラムです。人生には、簡単には決められない岐路があります。どちらを選んでも失うものがあり、周囲の意見も割れる——あるいは、周囲の意見が一方に偏っているのに、自分だけがどうしても頷けない。そんなとき、何を基準に選べばいいのでしょうか。鈴木がある大きな決断を迫られたときに軸に据えたのは、「自分が死ぬ時に後悔しない道は何か」という、たった一つの問いでした。この記事では、死生観を意思決定の基準にするとはどういうことかを、彼の経験を手がかりに考えます。(2026年7月時点)
周囲が「継ぐべきだ」と言うのに、なぜ頷けなかったのか?
全員が「こうすべきだ」と言うのに、頷けない
頷けなかったのは、その道を実際に歩き、その結果とともに生きていくのが自分自身だったからです。僧侶顧問・鈴木秀彰が直面したのは、実家の寺を継ぐか継がないか、という重い岐路でした。住職だった父が事故で住職を続けられなくなり、継承をどうするかが突然、彼の目の前に突きつけられます。相談した相手は、誰ひとりとして「継がないほうがいい」とは言いませんでした。それどころか、「継承する以外に親孝行はない」とまで言う人もいたといいます。周囲の総意は、はっきりと「継ぐべきだ」に傾いていました。
それでも鈴木は、「このまま進んでいいのだろうか」という引っかかりを消せずにいました。反対する人は誰もいない。にもかかわらず、自分の中で「はい」と言いきれない。この宙づりの感覚は、多くの人が大きな決断の前で経験するものではないでしょうか。周りの声がそろっているほど、自分だけが違う感覚を抱いていることに、後ろめたさすら覚えてしまう。
「借り物の答え」では、腹が決まらない
ここで大切なのは、周囲の言葉が間違っていたわけではない、ということです。相談相手はそれぞれの立場と善意から助言してくれています。ただ、その道を実際に歩き、その結果とともに生きていくのは自分自身です。だからこそ、他人の答えをそのまま借りても、腹の底では決まらない。鈴木が必要としていたのは、外から与えられる正解ではなく、自分の内側から出てくる基準でした。
迷ったとき、何を基準に選べばいいのか?
そこで僧侶顧問・鈴木秀彰が立ち返ったのが、死生観でした。軸に据えたのは、たった一つの問いです。
「自分が死んだ時に後悔しない道は何だろう」(鈴木秀彰)
この問いは、目先の損得や、周囲の期待とは違う角度から選択を照らします。「今、誰に褒められるか」ではなく、「人生の最後に振り返ったとき、この選択を悔いないか」。時間の軸をぐっと引き延ばすことで、本当に大切にしたいものが見えやすくなります。鈴木はこの問いを軸に、僧侶としての覚悟をあらためて問い直そうとしました。
答えは、外の修行からはやってこなかった
覚悟を確かめるために、鈴木はお遍路・山伏・護摩という3つの修行に挑みます。しかし、そのいずれもが当初の目的を果たせずに終わりました(経緯は本人の記憶にもとづくものです)。
| お遍路 | 四国の歩き遍路は、途中で葬式に呼ばれて中断した。 |
|---|---|
| 山伏 | 山伏修行では「何も変わらなかった」と述懐している。 |
| 護摩 | 護摩修行は、指導予定だった阿闍梨(あじゃり)様の病気で実施できなかった。 |
外側から答えを得ようとする試みは、いずれも当初の目的を果たせなかったのです。
ところが、その空振りの連続こそが、別の気づきへの入り口になりました。外からいくら答えを探しても、やってこない。むしろその過程で、鈴木は自分が周囲の総意に合わせて、自分を「枠に納めよう」としていたことに気づいていきます。転機になったのは、ある一曲との出会いでした。「自分の道は自分で選べばいい」という趣旨のメッセージに触れて号泣し、他人の言葉ではなく自分で選ぶと腹をくくった瞬間、背負っていた「鎧」が剥がれ落ちる感覚があったといいます(曲名やアーティストは本人の記憶によるもので、ここでは特定していません)。
「自分の道は自分で選べばいい」(曲から受け取った趣旨)
死生観を「意思決定の基準」にするとは、どういうことか?
後悔の"質"を選び取る
死生観を意思決定の基準にするとは、後悔をなくすことではなく、後悔の"質"を自分で選び取るということです。「死ぬ時に後悔しない道」という基準は、後悔をゼロにする魔法ではありません。どんな道を選んでも、失うものはあり、迷いも残ります。僧侶顧問・鈴木秀彰が最終的に選んだのは、実家の寺は継がず、けれども「僧侶として生きる」という生き方はバトンとして受け継ぎ、生きている人に関わるために起業する、という道でした。周囲の総意とは異なる選択です。それでも、自分の問いに正直に選んだからこそ、抱える後悔の"質"が変わります。他人に決めてもらった結果への後悔と、自分で選び取った結果への後悔は、同じ重さではありません。
迷えること自体は、弱さではない
付け加えておきたいのは、鈴木がすぐに決断できなかったこと自体は、決して弱さではないということです。周囲の声と自分の感覚が食い違うとき、簡単に割り切れないのはむしろ自然なことです。彼は宙づりの感覚を抱えたまま、遍路を歩き、山にこもりました。答えが出ないまま行動し続けたその時間こそが、最終的に「自分で選ぶ」という気づきを引き寄せたのです。迷いを抱えたまま動き続けることにも、確かな意味があります。
大きな岐路だけでなく、日々の選択にも
「死ぬ時に後悔しないか」という問いは、寺の継承のような一生に何度もない岐路にだけ効くものではありません。転職するかどうか、今の仕事にどこまで時間を注ぐか、誰との関係を大切にするか——日々の選択にも、同じ問いを小さく当てはめてみることができます。「この選択を、人生の終わりに振り返ったときに悔いないだろうか」。そう自問するだけで、目先の損得や、その場の空気に流されそうな判断が、少しだけ立ち止まって見えてきます。もちろん、毎回この問いを持ち出す必要はありません。ただ、進む方向に迷ったときの"物差し"を一つ持っておくことは、選択の質を静かに支えてくれます。鈴木にとって、その物差しが死生観だったのです。
まとめ——選び方に迷ったら、時間の軸を引き延ばす
大きな決断の前で、周囲の総意と自分の感覚が食い違う。そんなとき、鈴木秀彰が軸に据えたのは「自分が死ぬ時に後悔しない道は何か」という問いでした。目先の評価や他人の期待ではなく、人生の最後から逆算して選ぶ。その基準は、外の修行からではなく、「自分で道を選べばいい」という内側の気づきとして結実しました。死生観を意思決定の基準にするとは、時間の軸を引き延ばし、本当に大切にしたいものを自分の言葉で選び取ることです。後悔をなくすことはできなくても、後悔の質は、自分で選ぶことができます。
僧侶顧問は、経営者や事業に関わる方が抱える「本当は、どうありたいのか」という問いに、隣で伴走します。周囲の声と自分の感覚が食い違い、決断できずにいるとき。答えを急がず、問いを立て、言葉になるのを待つ。鈴木自身が歩いてきた道だからこそ、その迷いに静かに寄り添うことができます。
初回相談(30分無料)を申し込む
