Column

家族葬が一気に増えた理由——僧侶が現場で見た転換点としてのコロナ

形が変わったとき、葬式は誰のためのものになったのか

数多くの葬儀に関わってきた僧侶顧問・鈴木秀彰が、現場で見てきた葬儀の形の変化と、その先にある問いについて語ります。

この記事の要点

家族葬が増えた転換点はコロナだった——数多くの葬儀に関わってきた僧侶顧問・鈴木秀彰の見立てです。密を避けるため大規模な葬儀が取れず、家族だけの形が定着しました。ただし彼は簡略化の流れはコロナ以前からあったとも見ています。彼が強調するのは形の良し悪しではなく、「葬式は亡くなった人のためであり、残された人のためでもある」という両面です。

これは、僧侶顧問の代表・鈴木秀彰自身の現場体験にもとづくコラムです。葬儀の形は、この数年で目に見えて変わりました。家族葬という言葉も、すっかり普通に使われるようになっています。数多くの葬儀に関わってきた僧侶は、その変化をどう見ているのか。そして形が変わったことで、何が問われるようになったのか。本人の言葉からたどります。(2026年7月時点)

家族葬が増えたきっかけは何だったのか?

転換点はコロナだった、と鈴木は見ている

円卓を囲み、目を閉じて静かに時間を共にする日本人の人々

鈴木秀彰は、家族葬の増加についてこう語っています。

「今、葬式は家族葬がすごく増えています。そのタイミングポイントのきっかけがコロナだったと思います。」(鈴木秀彰)

ここで注意しておきたいのは、これが本人の現場実感にもとづく見立てであるということです。「と思います」という留保が本人の言葉に含まれています。家族葬の増加率や件数といった統計値を根拠にした話ではありません。数多くの葬儀に関わってきた僧侶が、現場で感じ取った変化の話です。

密を避けた結果、大きな葬式が取れなくなった

鈴木が語る変化の筋道は、次のようなものです。

コロナ禍では「密」が避けられました。その結果、多くの人に参列してもらう形——つまり大規模な葬儀——が物理的に取れなくなります。やむを得ず家族だけで行う形が選ばれ、それが続いた。そして、大きな葬式をやらなくても「ある意味問題ない」という認識が広がっていった、と彼は捉えています。

やむを得ず選んだ形が、やってみたら成立してしまった。この順番が重要です。誰かが「家族葬にしましょう」と提案して広まったというより、選択肢が塞がれた状態で実施した結果、それでも葬儀は成り立つと分かってしまった。一度そう分かったものは、元には戻りにくいものです。

コロナで亡くなった方については、当時すぐに荼毘に付され、お骨になってから皆の前に戻る——鈴木はそうした現場を見てきたと語ります。その理由を、彼は「周囲にコロナになってほしくない」という配慮だったと理解しています。

※コロナ禍での対応に関する記述は、当時の運用についての鈴木秀彰本人の理解・受け止めです。医学的・行政的な事実認定を示すものではありません。

ただし、流れはコロナ以前からあった

興味深いのは、鈴木がコロナを唯一の原因として説明していない点です。彼は、簡略化の流れはコロナ以前からすでにあったと見ています

他の事業と同じように、「本当にこれが必要なのか」と問われて削られていくのは当たり前のことだった——というのが彼の見立てです。葬儀もその例外ではなかった。コロナはゼロから流れを作ったのではなく、すでに動いていた流れを一気に加速させた、という位置づけになります。

コロナ以前「本当にこれが必要なのか」という問い直しによる簡略化の流れが、すでに進んでいた。
コロナ禍密を避けるため大規模な葬儀が取れず、家族だけの形が定着。「やらなくても問題ない」という認識が広がった。
その後家族葬が「すごく増えている」状態に。ただし形は遺族が選ぶもの、というのが鈴木の立場。

※上表は、鈴木秀彰本人の現場実感にもとづく整理です。統計にもとづく推移を示すものではありません。

簡略化は、悪いことなのか?

鈴木は良し悪しを判定していない

僧侶がこのテーマを語ると、簡略化への批判が来ると身構える方もいるかもしれません。けれど鈴木は、そこに価値判断を持ち込んでいません。簡略化するのも悪いことではない、と彼自身が語っています。

ふさわしい形は家族葬でもよく、一般葬でもよい。それは遺族が選ぶことだ、というのが彼の立場です。終活という形で、本人が生前に希望を残しておくやり方もありうる、とも語ります。

意見を求められれば、僧侶として「こういう形がいいのではないか」と伝える。ただし形を決めるのは、あくまで本人と家族です。この線引きを、鈴木ははっきりさせています。

現代的にふさわしいのは「みんなで作っていく」形ではないか

そのうえで、鈴木は自分の見立てをひとつ示しています。

「みんなで作っていく、みたいなお葬式が、今の現代的には、私はいいのではないかな。」(鈴木秀彰)

「私はいいのではないかな」という言い方に、彼の姿勢がそのまま出ています。これが正解だ、という主張ではありません。ひとつの見方として差し出されているだけです。

注意しておきたいのは、これは「大きな葬式に戻そう」という話ではないということです。規模の話ではなく、関わり方の話だからです。参列者の人数が多いことと、みんなで作っていることは、必ずしも同じではありません。

葬式は、誰のためにあるのか?

亡くなった人のためであり、残された人のためでもある

穏やかな表情で向き合い、静かに対話する二人の日本人

形の変化をたどったうえで、鈴木がもっとも強く語るのはこの点です。

「お葬式っていうのは、もちろん亡くなった人のためにやられているものでもございますが、もう一つ、忘れてはいけないのは、残された人。」(鈴木秀彰)

供養である以上、亡くなった方に向けて行うのは当然の前提です。彼が「忘れてはいけない」と付け加えるのは、もう一方の側——残された人たちのほうです。

この両面を踏まえると、家族葬をめぐる問いの立て方も少し変わってきます。「小さくしていいのか」ではなく、「その形は、残された人にとってどういう意味を持つのか」という問いになるからです。規模の大小そのものには、答えが含まれていません。

「最初からそうではなかった」と本人は言う

ここで鈴木は、自分について正直な補足をしています。

「最初からそうではなかった、反省すべきですけど。」(鈴木秀彰)

残された人にとってこの葬式をどういう意味付けにしたらいいのか——そう強く考えるようになったのは、途中からだった、と彼は明言します。最初から持っていた視点として語ることもできたはずの場面で、彼はそうしません。反省すべきこととして、後から身についた視点だと認めています。

この自己開示があることで、彼の葬儀観は「僧侶として最初から正しかった」という話ではなくなります。数多くの葬儀に関わる中で、後から気づいていったこと。だからこそ、今の彼はその両面を強調するのだと考えられます。

まとめ——形は変わった。問いは残っている

家族葬が増えた転換点はコロナだった、というのが僧侶顧問・鈴木秀彰の見立てです。密を避けるため大規模な葬儀が取れなくなり、家族だけの形が定着し、それでも問題ないという認識が広がりました。ただし彼は、簡略化の流れはコロナ以前からすでにあったとも見ています。他の事業と同じように「本当にこれが必要なのか」と問われて削られていくのは当たり前だった、と。

そのうえで彼は、簡略化の良し悪しを判定していません。形を決めるのは本人と家族であり、僧侶は求められれば意見を述べる立場だからです。彼が繰り返すのは、葬式は亡くなった人のためであると同時に、残された人のためでもある、という両面のほうです。形は変わりました。けれど「この葬式は、残された人にとってどういう意味を持つのか」という問いは、形が変わっても残り続けます。

僧侶顧問は、経営者や事業に関わる方の隣で、答えを急がずに問いを重ねます。形が変わっていく時代だからこそ、意味のほうを問い直す時間が要ることもあります。

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